移住したのは30年前

北海道の田舎暮らし

北海道の森に移り住み、家を建て、家族と暮らし、
別れを経て、再びこの場所に戻ってきた。
静かな日々の中で見つけた、私の現在までの記録。

30年前の東京

バブル崩壊がささやかれ始めていた頃、
購入からわずか3年の我が家は、
購入時のほぼ2倍の価格で売却が決まり

そして私たちは、
元夫の生まれ故郷へ移住することになった。

娘たちは4歳と2歳

3年間暮らしたマンションの周りには
近所に同じぐらいの子どもを育てる家庭が多く

すぐに打ち解け、互いの家を行き来しながら
子育て仲間として日々を過ごしていた。

不安など、ほとんどない毎日だった。

けれど、長女が幼稚園年少になった頃
日本中を震撼させる事件が起きる。

連続幼女誘拐殺人事件

犯人の行動範囲に含まれている地域と知り、
公園へ行く回数は減り、
日に何度もパトカーの往来を見るようになった。

次第に私は、「こんなところで子育てできない」と
そう思うようになっていった。
当時夫は、片道1時間40分ほどかけて都心部へ通勤しており

帰宅時間は早くても22時〜23時
朝のわずかな時間しか、子どもたちと顔を合わせられなかった。

下の娘は、
起きている時間に父親を見ない日も多かった。

休日に一緒にお風呂へ入ると、
上の娘は嬉しそうに笑うのに、
下の娘は激しく泣き、夫も戸惑っていた。

そのような家庭が周りにも多く
ママ友たちと、そんな出来事を話をしながら
笑い合うこともあった。

事件のあと、私たち夫婦は何度も話し合った。
どちらかが育った場所を選び、
そこで暮らすという生き方について。

そして最終的に北海道への移住を決めた。
夫は仕事を辞め、都心への通勤はなくなり、
引っ越しの準備が静かに進んでいった。

その年の10月、マンション中の友達に見送られて
私たちは東京を離れた。

飛行機の窓から見下ろした東京。
その景色を見ながら、私は思った。

ここで、暮らしていたんだ・・・

着いた街は北海道釧路市

今ではもう忘れてしまいそうな記憶だけれど
東京から釧路空港へ到着したのは、10月のある日だった。

その時の第一印象は
人が少ない、寒い、広い・・・(笑)
ただそれだけだった。

けれど実際は、
幼い子どもたちの様子を気にかけながらの移動で、
私自身もすっかり疲れきっていた。

その日の夜はホテルの部屋で
夫が買ってきてくれたお弁当などを食べて早々に眠りについた。

次の日、
これからの暮らしが始まるアパートへ向かい、
到着する荷物を待って、片づけを始めた。

そんな流れだったと記憶している。
子どもたちは幼かったし、
私は土地勘の無い街に立っていた。

そしてもう一つ、心の奥にあった現実がある。

夫の両親から、私は強く否定され続けていた。
(この話を書き始めたら、
一本のドラマになってしまうほどに)

同じ釧路市に住んでいても、義両親を頼ることはできない。

だから引っ越しは、
すべて自分たちだけで終わらせた。

それは、
振り返ればかなり大変だったはずなのに、
終わってしまえば、
人は忘れてしまうものらしい。

移住の目的は『田舎暮らし』?

移住の目的は、
「田舎暮らし」だけではない。

仕事を辞めて都会を離れて田舎で暮らすのは
そこでできる仕事も視野に入れないと無謀すぎる。

温泉町は夫の生誕地
義両親はすでに釧路市へ出てしまっていたが

私たちは街から離れた森を選び
そこでペンションの経営を夢見ていたのだ。

けれど今になって思うのは、
田舎で暮らしたい、ペンション経営をしたいと願っていたのは、
夫ではなく、私のほうだけだったのだろう、ということ。

当時の私は、
そんな事実にさえ気づいていなかった。

それでも夫は、私の話を聞いてくれた。
子育てについての考えにも、同意してくれた。

そして、
義両親から拒まれ続けていた私を、あの頃は守ってもくれた。

だからこそ私たちは、
なんとか引っ越しを終えることができたのだと思う。

目的の地は
釧路市から内陸へ70kmほど離れた小さな温泉町だった。

けれどそこへ向かうのは、家を建てる土地が見つかってから
そう決めていたので、
まずは釧路での暮らしが始まった。

土地を購入するまでに、一年半。

なかなか決断しない夫に、
私は、小学校入学を控えた娘のことを理由にした。

「新しい土地で、新一年生に。」

まるでスローガンのように掲げ、
その時期までに引っ越すと、私が決めた。

東京を離れてから、
三年目。

私たちは、
『森の家」を建てる場所を決めて、その町に引っ越した
引っ越した春は上の娘は新一年生に、
そして下の娘は町の幼稚園に入園した。

そうやって、半ば強引に
やっと北海道の森に家を建てる夏が始まった。

この夏だけは違う。
ここに、これからの人生が
本当に根を下ろしていく

そんな予感が、
静かに胸の奥にあった。

新築の家

夏から始まった建築は、冬が訪れるまで続き
その年の12月26日に、新築の家へ引っ越した。

新しい家、やっと出来上がったピカピカの
何もかもがキラキラしてた。

窓から見上げた空にはキラキラの星が輝き
薪ストーブの暖かさに感動した。

娘たちはこの家から学校へ通うことになる。
新しい家で新年を迎え、娘たちの新学期が始まった。

ところが、通学バスの時間が早すぎた(朝の7時)

車で送って行ったら10分ほどの距離だが、
ここは酪農地帯
点在する農家さんを回って、子どもたちを集めてから
学校へ向かうため、最も遠い家から出発する。

バス停までは1,2kほどの距離。子供の足で15分ほど。
まだ夜が明けきってない道を
トボトボと歩く娘の後ろ姿を見送ったが
バスには1時間ほど乗り続ける。

小学1年生には、キツイと判断し
程なく私が送り迎えすることにした。
町部から離れて暮らすって、そういう事。

その後には、記録的な吹雪の日に帰宅困難となって
同級生の家に泊めてもらったり
ピアノの発表会にも出て行けず、泣かれた事もあった。

「どうしてそんな不便なとこに家を建てたの?」

いったい何人の人にそう言われたのだろう・・・

「不便でしょ?」
「冬どうするの?除雪入ってくれるの?」

『東京から来た若い夫婦』だった私たちを
興味を持って見守ってくれた町の人たち。

この町を選んで
ここへ帰ろうと決めたのは夫だったけど

彼は静かに溜め込んでいたんだろうと思う。
亡くなってから、気がついた。

移住者は『異分子』だ。
ハッキリ自覚して生きていればいいと思う。
興味と好奇の感情は絶対避けられない。

夫は自分が生まれ育った町に戻り
軽く言われる言葉に
傷つく事もあったんだと思う。

夫とのこと

結婚した当初は夫の両親から、
事あるごとに批判された私。

私自身のこと、
私の実家のこと。

「とにかく気に入らない」
そう、何度も言われた。

要するに私は、
大切な息子を奪った憎い嫁だったのだ。

今なら、
笑ってしまうけれど。
そんな結婚生活を送っていた時代があって決めた移住だった。

でも、長く過ぎてみると
そんな出来事の積み重ねが、
今の私を少しずつ形づくっていったのだと思うから・・・

今はそれら全てに感謝してる。(ことにした)(笑)

書き出せば、
きっと一本のドラマになるほどの内容だったけど(笑)

でも、
そんな物語は誰も観たいとは思わないでしょ?
自分も、思い出したくないし。(忘れてないけど)(笑)

子供たちは成長して巣立ち、義両親も、元夫も、
みんな、天国へ行ってしまった今、
森の家は本当に静かだ。

そして私は、最近ようやく
自分の人生を
取り戻せるところまで来たのかなと感じてる。

ほどけていった約束

夫は、この家を
きちんと修繕できないまま暮らしていた。

思えば、
建てる時から違和感はあった。

本来の移住目的は、
田舎でのペンション経営。

それを目指して、
この森へ来たはずだった。

けれど到着した途端、
流れは少しずつ変わっていった。

ペンションはやらない方向へ。
やっても、うまくいかないという前提の方向へ。

そして最終的に、
「今は子育ての大事な時期だから」と、
この家は“自宅”として建てることになった。

東京にいた頃、
そんな話ではなかったのに。
あんなに意識合わせを繰り返して
同じ目的で動いていると信じていたのに。

おそらく、生まれ育った町ではあっても
ここでペンション経営をしたところで
この地では半年(夏場)で
一年分を稼がないとならない・・・

今思うと、それが大きな障害だったのだと思う。

結局、夫は『自宅』を建てた。
そして生活が始まって、子供たちは成長し
巣立って行ったのだ。

彼との生き方、考え方の違い、温度、感覚的なもの
そういったものが

長い年月の間に、少しずつ、
でも確実に、私の気持ちを夫から遠ざけていった。

北海道でなくてもよかった。
何度も、そう思った。

けれどそれさえ、
義両親が北海道以外を認めなかったから。と夫は言った。

夫は、
自分で何かを決めることができない人だった。

どうしたいのかは分からない。見えてこない。
けれど、「したくないこと」だけは
はっきりしている。

物事はまず『否定』から入る。
『肯定』の言葉で始まったことの無い暮らし。

石橋を叩き壊して、
「ほら、渡らなくてよかっただろ」
そういう人だった。

本来の目的は石橋を渡った先にあるのに・・・だ。

下の娘が二十歳になる年の春
私はこの家を出た。

「子どもたちが離れて残された夫婦って
努力しないと関係性を維持できないよ」
「努力って片方だけじゃダメだと思う」

何度もぶつけた言葉に、返答も無かった。

会話のないまま時間だけが過ぎていく日々
当時の私は暗いトンネルの中を
俯いて歩くだけの人生だと・・・

私はこのままこうして、親も兄妹からも
自分の事を知っている人達から遠く離れて
消えちゃうだけなんだ・・・

そう思って生きてた。
だから、ギリギリ自分が自分であるうちに
「生き直す」と夫に告げて家を出たのだ。

そして今、夫が他界して3年過ぎて
再びこの家に戻り、修繕し、
庭の木を伐採して、
少しずつ暮らしを整えながらここに居る。

私は、心の中で、夫に言う。

「あなたがやらなかったことを、
 私が引き受けたんだから。

私がこれからやろうとすることは、
見守ってよね。

誰にも言えず、
一人で抱えていた不安を、
あなたは私に見せることはなかった。

会話も無く暮らしていたのは
弱い自分を知られたくないからでしょ?

悲しいけど、
少しカッコつけすぎたね。

あなたからしたら私は
弱音を吐けない相手だったってことか・・・

でもね、
この家の最後は、私が片付けないと。

残していったのは、
私の仕事ってことなんでしょ?

一緒に建てた家だからね。

了解。やってあげるから
ちゃんと、見ててよ。」

返答は無い。

そうは見えなくて良かった(微妙)

東京から移住して来たからといって、何も特別じゃないし
地元のことは地元の人間に学ぶしかない。
そう思って暮らしてきた。

よく見せようとしなくていいし
理解してもらおうとしなくてもいい。

どこに暮らしても、それは変わらないと思う。

「へぇ〜東京から?そうは見えないね」

よく言われたものだ(笑)
そうは見えなくて良かった。逆にそう見えたらどうなんだ?

長く続いている友人もいれば
挨拶程度の人たちもいる。
30年の間には、さまざまな事があるに決まってる。

子どもの学校行事で印象的というか
この地で見た風景に、
当時の私の思考が追いついて行けなかったいくつかを紹介しよう。

まず、『運動会』

保護者の『場所取り』競争(笑)
朝、6時、花火の音を合図に、お父さんおじいちゃん
おじさん、お兄さん、家族の誰かがシートを持って走り出す。

お昼は各家庭の豪華弁当を広げて食べる
ある年の運動会では、仕出しのお寿司を届けに来る風景もあったし
いきなりBBQセットを取り出し、焼き肉を始める家庭も。

つまりは一年の中でも『一大イベント』だったのだ。
昼食後の競技になると、酔いつぶれて寝てる保護者の姿も・・・

子どもの運動会なのに・・・と、思った記憶がある。
今はどうなんだろうか、当時とは様変わりしてると思うけど

当時の私は子どもたちの競技だけじゃなく
保護者たちの様子を伺うのにも忙しかった。
どっちかというと、保護者の方が面白かった(笑)

もう一つは『普段の私服』(小学生)
登校時からジャージ姿だったのだ。

え?運動着で登校?体育授業がなくても?

素朴な疑問だった。
そして父母たちから聞こえてくるのはブランド名

「◯◯のジャージ着て、運動靴も新調して、よく走れただろうね」的な・・・

ついて行けなかった。
ジャージ登校は当時の私の感覚ではダサかったのだ。(笑)

しかも運動会当日に新調したジャージと運動靴・・・?

意味が全く理解できなかったし、今も理解はできてない。
我が家の子ども達も欲しがらなかったし、そんな話をしたことも無い
普段の体育着で過ごしたのは我が家だけだったかもしれない。

それでいいけど。

他にもカルチャーショックはいっぱいある。
でもさすがに30年住んだ。
ももう地元感覚に出来上がってると思う。(笑)

そして、ただここに暮らしている

 

森の木々の隙間からは、朝の光がゆっくりと差し込んで
すぐ近くで、野鳥たちの声が重なり合うように響いている。

何かが始まるわけでも、特別な一日になるわけでもない。
それでも私は、いまここで、ただ暮らしている。

そう、ただ暮らしている。

2匹の猫たちは、私が起きるのを静かに待っているから
彼女たちへ小さな号令をかけて、私は体を起こす。

さぁ今日も楽しみますか。

台所へ向かいお湯を沸かして、
洗面、着替え、洗濯機を回し

待ってた猫たちにご飯をあげる

猫たちが落ち着くころ、
窓の外の光はもう、朝から昼へと向かい始めている。

特別な予定があるわけではない。
誰かに急かされることもない。
それでも、今日という一日は、静かに進んでいく。

森の中で暮らすというのは、
何かを手に入れることではない。

ただ時間の流れと一緒に『在る』ことなのだと思う。

そうなりたくて、でもそうなれなくて
遠回りもしたけど、やっぱりそれを求めてきた。

そんな日々を重ねながら、
私はここで、生きている。

それを楽しんでいるし、今はそれだけで十分なのだと思う。

田舎暮らしのリアルな経費

田舎は物価が安いと
思っている方も多いと思う、
実際私も、そう思っていた。

でも違った。(笑)

むしろ不便な分、経費はかかる。
そう覚悟した方がいい。

幸い、森の家は地下水のため
ポンプ維持費等に月々2500円ほど

夏はクーラーの必要がなく扇風機で間に合う
昼間暑くても夜には涼しくなるからだ。

けれど冬の暖房は別世界だ。
我が家は薪ストーブが主流で、
薪は一部自分でも割って積み上げておくが
秋に一括購入する。ひと冬分は、約10万円ほど

薪の種類にもよるし、配送料もかかるから
実際は10万以上の支払いになる

でも昨秋は予算が無くて購入できず
この冬は灯油ストーブと併用している

灯油は月々2万円〜3万円以上。家の大きさ広さが違うから
もっとかかってる家も多いと思う。
シーズン前に外に設置している大きなタンクを満タンにしてもらうが

満タンに入れてもらったら、5〜6万以上かかるので
今季は11月の末に3万円分入れてもらって
1月末に同じく3万円分入れてもらった。
次は3月かな・・・

5月6月になっても、夜だけ少しストーブを使う日もあるから
灯油はほぼ一年中、確保しておきたい。

天候によっては配達が困難になるため、
残量が減る前に早めに頼む必要がある。

灯油の配送業者さんは、
近くまで来る予定があると
数日前に電話で必要の有無を聞いてくれる。

こんな田舎でも、
人の手に支えられて暮らしているのだと感じる瞬間だ。

ガスはプロパンガス。
契約している地元の業者さんが
定期的に交換に来てくれる。

料金は月6000円〜7000円ほど。

冬場は電気代も跳ね上がる。
電気ストーブを使い、
灯油ストーブの稼働にも電気が必要だからだ。

我が家の電気代、夏より1万円も多かった。
今月は16000円も請求が来た。

猫用にと設置していたコタツのスイッチを消した(笑)
コタツの外のお布団があればいいようだし・・・

冷蔵庫は基本的に使わない暮らしをしている。
必要な時だけ使うのだ。

たとえば、時々カフェの仕込みで
食材を冷蔵したい時など。

普段の食事は、
食べる分だけ作るから残らないし

冷凍できる食材は冷凍庫へ。
余計な電力も、余計な食材も、
なるべく持たない暮らしを選んでいる。

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